◎信心をくさす者に対して、「お気付を神様が下されるだろう、そのうち目にもの見せて」といった心がいけない。おかげをいよいよ頂き、おかげの実証をもって現していかねばならない。
%1椛目時代の悪口話へのお気付のエピソード
昭和四十三年二月十三日 夜の御理解
信心をさせて頂いておりますとね。色々な事があるんです。それこそ人の口には戸が閉てられんとおっしゃるが、もう、それこそ棒にも箸にも掛からん様に悪口を言う人があります。信心しょる奴なんか、気持ちがしれんとか。私共の方が拝まして頂いておる、有難いと思うておる神様の悪口を言うたり、本当に親先生と、もう例えば、もう自分の一番、もう尊敬しておる大事に有難いと思うておる、まあ親先生の悪口を、わざわざその人の心をいぶる様に、悪口を言うたりする人があるんですね。
ですから、ここん様な所を、お互い信心さして頂いたら、そういう様な事もある。いわゆる、また、それを疎外する、障害になるような事を言う人もある。けれども、そこん所をひとつ本気で、信心で、豊かな心で受けていかなければ。それこそ信心のない者でございますから、「神様どうぞお許し下さい」と言うて、その人達の為に、こうお詫をしてあげれる。祈りを捧げさして頂けれると言うぐらいな、私は、豊かさが必要だと。
これは私共も、信者時代に色々それがあってですね、本当にもやもやしてから、言うて返そうというような事でまあ、ね、やり込めてやろうと思えば、やり込めようと思えば、やり込めもされるんですけれども、それをしたんでは、おかげが受けられないのが信心ですね。「打ち向かう者には負けて、時節に任せよ」。その打ち向かう者に負けて、時節に任せるという。任せておる間が素晴らしい。今日私、あの、こんなお夢を頂いた。
『それこそ、もう大変な大男と、あんな実在の人物に、あんな大きな男はおりませんよ。大きな男が、こう、丁度そこの上に、いうならば時計屋の所に、おおきな袋戸がある様な感じですね。人間がやっとこう入って、斜めにならなきゃ入れんぐらいな棚があります。そこに椛目の御信者さん方が、一杯窮屈そうにして、こんなにして入っているんですよ。
そして、皆が苦しそうな顔しとるとですよね。そりゃ苦しいです。上に押し上げられとるという感じですから。ところが、その押し上げおるその棚ととの間にですね、これはその、やっぱり木で造った彫刻の、大きな鯉が彫り込んである。それを人間がこういうふうにして、支えておるという様な感じなんですね。
そしてその上に、上がっておる椛目の人達が、苦しい様な顔をしてから、みんな言いよるとですもん。「私達の、このはがいいと思うこの涙で、下の徳がね。徳じゃない、その鯉が、鯉はここで御神徳とおっしゃるが、あの徳が溶けて、あれ達にとばしりが掛かったら、目にもの見せてやりたい」と言う様な事を言ってるところでした。』
まだそれには、他の現在、現実の問題に関係した事のお知らせを、次々に頂きましたですけども。そこの所から、私は、今晩の御理解を頂いているんですねえ。お互いがですねえ。例えば、「私を見て下さい。これを見て下さい」と言った様なおかげを頂いたら。人が、もうなる程、「金光様の御信心ちゃ、有難いもんじゃなあ」と言うてくれるんです。ね。
例えば、信心はしょっても、病人が絶えないとか、様々な難儀が抱えておられるとか、窮屈な生活をしておるという。だからこそ、信心さして頂いておる。だからこそ、この大男というのが、私は天地の親神様のお姿であったと思うのです。ね。だから、これを段々、高めて下さったておるわけなんです。だから、窮屈なんです。段々高めて下さって。ね。
それにその、人が軽蔑したり、笑ったりしたりしておる人達を見てから、本当に、私達のはがいいと思う涙で、あの徳が、あの鯉が溶けて、その溶けたとばしるが掛かったら、本当に、目にものを見せてやれれるのにと言った様な、そういう感情があってはならない。という事だと私は思うのですね。
ありますよやっぱ、本当にそういう、もう先日も、ある方が、わざわざその人の方に来てから、ここの教会の事を悪口言ったりして、村内の方が。ある村内の方が来てから、一生懸命、お母さんと息子さんが一生懸命信心します。「あんた達はちっと、ぼうけちゃあおるめえ」と言われ、「なしてやち」と。
はああんた、朝参り、夜参りしてからあんた、何が良かなら、そげん金光様、金光様ちなるなら、「こんこんさんじゃなかばの、金光様ばの」言いよったばってん。「いや待て待て、この人に言いよったって仕方がない」と思うて。あの一生懸命はがいかったけれども、心の中で、その今に、この人もお気付けを頂いてから、頂くじゃろうと思うて、その言いませんでした。
ここん所がいけないです。その、そげな悪口を言いよったら、神様がお気付けでも下さるに違いない。いわゆる罰を当てなさるという意味の事を、ここに思うたとこういう。そんな事でしもうた、何も分からん者ですから、ねえ、その人達の為に分からすのですから、今ここで、少々説明しても分からない。返って反対の事を言う。問題は、私共が、親子がおかげを受けなければならん。
そればってん見て下さい、信心させて頂くようになったら、私もこげんおかげを頂いた、息子もこげなふうに立派に育っていきよる。おかげで家もこんなに奇麗になった。商売も段々繁盛する様になったと言うふうにです。ね。それを見せられる様になるまでが、辛抱なのである。
むしろだから、そこは祈っていかなければいけないという感じなのだ。それは、やっぱり生きた神様ですから、あんまりした事柄を言いよるとです。ほんとにそんな、お気付けを頂く様な事もあります。それは言わんでも、思わんでも、それがあるんです。
%1これは椛目の時代でしたけれど、丁度、妹がここに参ってますけれど、妹が目の前で聞き、目の前で見た事なんです。青年の人達が二、三人何か、その竹の長いとば肩げちから、自転車に乗って行きよった。もう何年前、自動車もあんまりおえない時でしょうね。あんな片手で≪乗る≫ぐらい、自転車で行くぐらいだから。
%1どこの青年か知らんけれども、「はあ、ここが椛目のこんこんさんばのち、はあ何とか、かんとか」、えらい大きな声で悪口を言うて行きよる所へ、丁度妹が出会わしたんです。その言う口がですね、乾かない内ちゅうというのはこの事じゃろう。こうやって持って行きよった竿がですね、原口さんの店がありますねこっち、店の瓦の中に突っ込んどる訳です。
%!それで自分な引っ繰り返ってから、もうあゝ痛よちいうてから、もう外から見よったら可笑しかろうち。金光様の悪口を言いよったけんでやられたち、言わんばかりのふうで、それこそ、コソコソのていで、自転車に乗って逃げる様に、そこを去ったと言う話を聞いた事があるんですけどね。ありますよ、やっぱり、あまりした事が、本当に生きた神様ですから、ね。
%1やっぱ、軽率にそういう様な事があれば、お気付けでも下さる神様ですけども。私共がです、ね。そげな事しよると、お気付けでも頂くと良いという様な心掛けでは、こっち自体がおかげを受けられないという事です。ね。
それは如何に、神様が負けてござる、ごたるであってもです。神様に勝つ事は、絶対出来んのですよ、これは。これは、私の永年の体験から、信心のない人達とのいろんな対立がありましたけども。こちらが、ことつも対立しない。ね。いや、むしろ祈って行くと言うか。けれどもやはり、おかげを頂いて、それこそ、地を低うして、また信心になられる。
やっぱり、とやこう言うのも、神の比礼じゃからとおっしゃるのですから、ね。はあ、ここは金光様ばの、なんばのと言う事は、金光様を認めておると言う事なんです、知っておると言う事なんですから。やっぱり神の比礼なんです。ね。ですからむしろ、そういう人達が先に、御神縁を頂くと言った様な例が多いのです。
けども、そういう時に、私共がです。本当に、はがいいと思う涙が、この鯉を溶かして、そして、あれどんに掛かったら、あれどんが目にものを見せる事が出来るであろう、と言う様な考え方で、いかに〈御礼〉申し上げられても、これは駄目な事です。ね。
そういう窮屈な思いをする時こそ、いよいよ、本当の信心を分からして頂いて、問題はまず、私が、私一家がこれを見て下さい。金光様の信心をすりゃ、人柄もこんなに変わります。家の中もこんなに変わります。こういうおかげも受けられる。と。それを見せられる様になられる所まで、お互い、信心を高めて行かなきゃならんと思うですね。どうぞ。